Manassasふたたび
2008-10-11


身長6フィート4インチ(193cm)。その長身を映した写真は、「立派」と言うより「でかすぎ」の印象を与える。その上、高さのあるトップハット(シルクハット)をかぶった姿が、エイブラハム・リンカーンのトレードマークだった。
 リンカーンは短期間軍隊に身を置いたことはあるものの、実戦経験はほとんどなかった。彼は天性の弁護士,政治家、そして大統領だった。この抜群の政治手腕を持った大統領の任期はすべて戦時であり、もっとも難しい時を乗り越えることを強いられた。
 リンカーンと言えば奴隷解放。彼はその信念を決して曲げることはなかったし、それこそが戦争を北軍の勝利,連邦制の維持に導いたが、かと言って慈悲深く正直なだけの人物でもなかった。
 「奴隷解放宣言」を発するタイミングは慎重に選んで待っていたし、その対象を「南部連合の奴隷」に限定したことにより、北部連邦に残った奴隷州への配慮を忘れていない。戦闘の前線へは、電報で「リーを必ず捕えろ」、「敵を撃滅せよ」、「噛みつき、噛み殺せ」と指示し、戦時の大統領にふさわしい闘志をあらわにしている。

 戦時の大統領と言えば、戦略,作戦,実際の戦闘に関しては専門の軍人に任せきり、口を出さないのが理想だが、少なくとも戦争の前半でのリンカーンはそれに当てはまらない。その身はワシントンにあったが、当時本格的な実用が始まった電信を用いて戦闘現場の情報を集め、ワシントンからの問い合わせも頻繁に行い、現場の将軍への事細かな要望を伝えた。

 マクレランが半島作戦で、リッチモンドを目の前にリーが率いる南軍に反撃されて難渋しているころ。リンカーンはワシントンに留め置いておいた軍勢をヴァージニア軍として編成し、ヴァージニア州西部シェナンドア渓谷(アパラチア山脈の裾野)― つまり西からリッチモンドを攻略する作戦を立てた。
 このヴァージニア軍の司令官に任命されたのは、ジョン・ポープ。1862年7月、ポープはヴァージニア軍45000を率いて渓谷方面へ出撃した。
 北軍主力ポトマック軍の司令官マクレランは、リンカーン大統領が進めたこの作戦に気を悪くしていた。そのうえ相手の力を過大に評価し、万事慎重すぎるマクレランは、半島作戦からの帰還もゆるゆるとして、決してポープに協力的ではなかった。
 一方、南軍のリーは、大胆な作戦に出る。マクレランの動きの鈍さを見るや、リッチモンド防衛に従事していたストーンウォール・ジャクソンを12000の軍勢と共にシェナンドア渓谷へ派遣した。もし、この機にマクレランが再度リッチモンドへの攻勢をかけたら、かなり危ないことになっていたが、そうははならなかった。マクレランは、リーにその性格を読まれ、利用されていたのだ。

 ジャクソンの行軍の特徴は、機動性だった。その特性を活かし、リーはジャクソンに南下する北軍の脇をすり抜けて、北側から攻勢をかける作戦を授けた。このため、ポープはリッチモンドを攻撃するどころか、北側から迫るジャクソンへ対処せざるを得なくなる。結果、今度の戦場は前年と同じマナッサス(ブルラン)と定まった。

 ジャクソンには増援があったとは言え25000の戦力。マクレランが半島から引き揚げて、しぶしぶながらポープに増援して北軍は62000。いつもの如く戦力は北軍が勝っていた。
 8月末、両軍がマナッサスで再び戦闘を行ったとき、ポープは正確な敵状把握ができておらず、ジャクソンに見事な踏ん張りをさせてしまう。しかも即席のヴァージニア軍はポープの司令に対する反応が悪い。そうこう手間を取っているうちに、リーが派遣したジョーゼフ・ロングストリートの援軍30000がマナッサスに到着してしまった。
 主導権は南軍に渡った。北軍は一年前の潰走とはならないまでも、結局16000の死傷者を出し、ポトマック川を渡ってワシントンに撤退した(南軍の死傷者9000人)。これが第二次マナッサス(ブルラン)の戦いの結果だった。


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