2010-07-16
ゲティスバーグから撤退した南軍が北軍にそれほど妨害されることもなく、ポトマック川を渡ってバージニアに戻ったことは、リンカーンをおおいに怒らしめた。リーと、彼が率いる南軍を壊滅させることができなかった − チャンスはあったのに ― そのことに、戦闘的意義よりも、政治的な意義で重大なも問題を見出していたからだ。
当然、北軍を率いたミードはゲティスバーグでの戦勝将軍でもあるにもかかわらず、厳しい非難に晒された。
北部連邦はこの状況を打開するためにも、1863年秋までポトマック川を渡ってリー率いる南軍に攻撃を仕掛けようと試みた。しかし、故郷に戻り、防御に入ったリーと南軍を破るのは容易なことではなく、結局これといった戦果をあげることなしに、冬を迎えた。小氷期の末期だった当時の寒さは、現在の比ではない。さらに装備の問題もあって当時、冬季に派手な戦闘は基本的に行われなかった。
ゲティスバーグの戦いから4ヶ月後。ゲティスバーグの戦場近くには、国立戦没者墓地が作られた。その奉献式(開場セレモニーのようなもの)には、大統領リンカーンも招かれた。
ここでのメイン・スピーチは、エドワード・エヴァレットが行った。彼は下院議員、州知事、イギリス公使、ハーバード大学学長などを務めた人物で、その演説は2時間にも及んだ(当時の演説会ではこの程度の長さは普通だったらしい)。
一方、リンカーンは客として短いスピーチを依頼され、およそ2分ほどの短いスピーチを、静かな口調で終えた。彼が演説している最中の写真は残っていない。とにかくあっという間に終わった。別に派手な展開は起こらなかった。
しかし、取材していた複数の新聞記者たちがその短い演説を書き取り、新聞に掲載されたことにより、この簡潔な演説は広く知れ渡るようになった ― すなわち、「人民の、人民による、人民のための政治 government of the people, by the people, for the people 」が特に有名な、ゲティスバーグ演説である。
極めて短い演説なので、ネットは簡単に全文翻訳で読むことができる。
時間差で起こったこの演説の劇的な効果を、リンカーンは計算していたのだろうか。おそらく、偶然だろう。
ともあれ、北軍が華々しく勝ったわけではないものの、後世から見れは一つのターニング・ポイントであり、結局南北戦争全体の規模としては最大級の激戦だったゲティスバーグの戦場跡地で、この演説が行われたという状況の効果は絶大だった。しかも、短く、簡潔な演説であるところも重要だ。その場は墓地の奉献式であり、議会で意地悪な議員たちを相手にしているのではない。多くの「一般人」のために、添え物程度に短く簡潔な演説にしたのが、功を奏した。要するに分かりやすいのである。
さらに、強い政府を伝統的に嫌うアメリカ国民にとっても、「人民の、人民による、人民のための政治」という表現が、実に巧妙に働いた。実際のリンカーンの大統領としての仕事は、戦時だったためかなりの剛腕ぶりだったが ―
リンカーンは、この短い演説が及ぼした影響の強さを、あまり知ることはなかっただろう。ゲティスバーグ演説から一年半も経たないうちに、彼は命を落とすことになったのだから。
終わってみると北軍とミードの詰めの甘さが余韻として残るゲティスバーグだが、結果が南軍の負けだったことには違いない。リンカーンがこの微妙な勝利にある程度の意義を感じていたのと同様に、リーもゲティスバーグの結果がもたらす重大な事態を自覚していた。
リーはこの敗戦の責任は自分にあるとして、南部連合大統領デイヴィスに、バージニア軍司令官からの辞任を申し出たが、これは受理されなかった。デイヴィスは個人的にもリーがお気に入りだったし、他にリーの後を任せる人材も南軍にはなかった。
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