迷惑な援軍
2010-08-15


南北戦争は、西部戦線に目を向けることにする。話は、ゲティスバーグの10月前、1862年秋に戻る。
 西部戦線は、広大な地域をその戦闘範囲に含むが、主に二方面の戦いに代表された。ひとつは、テンチ家の兄弟 ― ジョン・ウォルター・テンチ(ベンモントの曽祖父)と、ルービン・モンモランシー・テンチが所属するナッシュビル周辺の戦闘。もう一つは、ミシシッピ川をめぐる戦闘である。

 ミシシッピ川河口に関しては、北軍が既に海軍でもって制圧していた。残すは、ミシシッピ州ヴィックスバーグである。このミシシッピ川東岸の拠点を落とさないことには、北軍が川を制圧したことになならない。しかしこのヴィックスバーグは攻めるのが難しい。
 北軍が攻めあぐねる中、リンカーンがユリシーズ・グラントを部下のシャーマンなどとともに、テネシー方面から派遣したのは、1862年の秋である。
 グラントは、川側からヴィックスバーグを落とすことは困難であると早いうちから判断していた。まずバイユーという地図さえ満足にない低湿地・沼地という悪条件がある。したがって、グラントはヴィックスバーグの北300kmほど離れたテネシー州メンフィス付近から、順々に南軍の拠点を落としながら南下し、ヴィックスバーグへ向かい、消耗線に持ち込む作戦を取った。
 ところがこの作戦は、なかなか上手く作用しなかった。グラントもその部下たちも、南軍の騎兵の活躍 ― ヴァン・ドーンや、ネイサン・ベッドフォード・フォレストらが率いる南軍自慢の騎兵に、手を焼いたのである。しかも北軍の物資は奪われ、焼かれ、電信を寸断され、鉄道の線路まで破壊されてしまった。1862年の12月までの状況はこのようなもので、グラントにとっては芳しい戦況とは言えなかった。

 そんな中、リンカーン大統領のもとに、イリノイ州の下院議員ジョン・A・マクラーナンドが、ある提案を持ち込んだ。マクラーナンドは自ら大規模な旅団を組織し、ヴィックスバーグ攻撃を買って出ようというのである。
 軍隊という厳格な組織にとって、このような私的で、政治的狙いが露骨すぎる自称「援軍」は、明らかに好ましくなかった。そもそも、マクラーナンドはこれまでもやや中途半端な形で戦闘に参加しては、グラントに関してあまり良いコメントをしてこなかった人物である。グラントがそんな援軍を歓迎するはずがなかった。
 リンカーンもそこは理解していたであろうが、彼は徹頭徹尾の政治家だった。大統領は「政治的配慮」というもので、この発言力の強い下院議員の提案を、「喜んで」受け入れたのである。
 グラントにしてみると、迷惑この上ない。リンカーンは司令官はグラントであることを保証してくれているが、グラントはマクラーナンドが到着する前に、シャーマンに対してヴィックスバーグのすぐ北,チカソーの拠点を落とすように命じた。グラントにしては珍しく、やや焦ったようだ。しかしシャーマンのこの軍事行動は成功せず、やがて1863年になるとほぼ同時に、マクラーナンドが到着して、シャーマンの上に立つことになった。
 しかし、誰にも想像できたであろうが、グラントより10歳ほど年長のマクラーナンドは将官としては不向きな男で、グラントの忠実な部下であるシャーマンのみならず、ある意味「部外者」であるはずの、海軍側からも非常に評判が悪かった。彼ら曰く、マクラーナンドの高圧的で尊大な態度の軍事的指示には従えないと言う。
 グラントは、1月下旬にはマクラーナンドから指揮権を取り上げ、自らの配下に置くことによって、事態を収拾した。

 政治的配慮としては、このグラントのマクラーナンドへの対処はかなり大胆なものだった。実際、マクラーナンドはグラントの失脚を画策するなど、グラントにダメージが無かったわけではない。

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