テンチ家の兄弟(その2)
2008-08-24


南北戦争の原因を簡単に説明するのは、難しい。北軍=奴隷解放=正義 VS 南軍=奴隷維持=悪 …という単純な図式してしまうのは、どだい無理で、正しい状況説明にはならない。しかも、歴史の面白さを削ぐ。
 北部アメリカは、工業中心の経済を基盤とて都市化が進み、労働力はその都市に流入するヨーロッパや農村からの移民に移行しつつあった。この流れ上、「奴隷制度を無くそうとする北部地域」が形成された。 一方、南部は黒人奴隷や、貧しい白人層を労働力基盤とし、地主が大農園を経営して経済を支えていた。この結果、経済面と社会構造面での対立が南北に生じる。
 (蛇足。もし南北戦争以前だったら、ベンモントは確実に大農場主で、トムとマイクはそこに雇われている側だろう…。)

 アメリカで続々と成立しつつあった各州は、それぞれに奴隷州か、自由州かを選択していたのだが、1860年の大統領選挙で選出されたエイブラハム・リンカーンは、奴隷解放に関しては態度を保留していたものの、奴隷州の拡大には明確に反対していた。これによって南部11州が合衆国を離脱。南部連合国(コンフェデレート)として、北部合衆国(ユニオン)との戦争に突入した。ただしこの時、奴隷制を維持する4州(デラウェア,ケンタッキー,メリーランド,ミズーリ)は北部ユニオンに残留した。
 1861年3月にリンカーンが合衆国大統領に就任。それより先に南部連合国はジェファーソン・デイヴィスを大統領に選出し、バージニア州リッチモンドを首都とした。
  4月12日、サウス・カロライナ州,チャールストンのサムター要塞の戦いで南北戦争の火蓋は切って落とされた。

 南部の人々にとって、この戦争は自分たちの生活を守る、いわば「郷土防衛戦争」だった。この意識は戦争勃発当初の士気に如実に表れていた。
 既存の軍隊を使えた北部は、短期で戦闘は終了すると楽観していたのに対し、まず軍隊から作らなければならない南部では、土地,財産,家族,生活を守るべく人々が自ら義勇兵として立ち上がっており、熱気が違った。

 ジョージア州コウェタ郡ニューナンは、大都市アトランタの南西約80kmの町。ここの裕福なテンチ一家にとっても、南部の熱気は変わり無かったようだ。
 開戦と同時に、ニューナンでは「ニューナン・ガーズ」という自衛組織のような義勇兵団が作られた。裕福なテンチ家の兄弟たちも、これに参加した。
 当時テンチ家の兄弟は、長男ヘンリー27歳,次男ジョン22歳,三男ジェイムズ19歳,四男ルービン17歳。彼らの父親ヘンリーは既に他界していたため、長男ヘンリーが農場主であり、彼は義勇兵には参加しなかったようだ。いわゆる、「畑と女たちを守るために残った」というやつだろう。後に戦局が長びき、徴兵が行われても、農場主は除外された。
 ジョン,ジェイムズ,ルービンは学生だったが、学校を中退してニューナン・ガーズに入った。末っ子のルービンは17歳といかにも若いが、この当時兵士の適齢期は17歳から35歳とされた。私は当初、ルービンが戦いに参加したのは戦争末期だと思っていたが、どうやら最初から志願していたようだ。

 義勇兵が自費で兵士になる場合、騎兵はかなり裕福でないと無理がある。馬とそれに付随する装備,人員が必要だからだ。テンチ家の兄弟には、それが可能だった。
 後にニューナン・ガーズはジョージア州の正規軍隊に編入される。テンチ家の兄弟もガーズもろともジョージア第一騎兵連隊に編入されるのだが、それは1861年秋のことだ。その前に、ニューナン・ガーズとしての騎兵隊は、バージニア州の戦場に向かった。騎兵という機動性に富んだ兵力の特性を活かしての事だろう。
 しかしこの作戦行動は、テンチ家の兄弟にとっていきなり運命的なものとなった。

(つづく)
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