2009-01-29
ストーンウォール・ジャクソン。
本名、トーマス・ジョナサン・ジャクソン。1824年バージニア州生まれ。南北戦争開戦の時は、合衆国陸軍の少佐で、軍学校の教官をしており、担当は砲術と数学だった。
ジャクソンもリーと同じく、故郷バージニアと行動をともにし、当ブログにも度々登場するとおり、南軍の将として活躍した。
1861年第一次マナッサスの戦い(2008年9月18日の記事参照)では、数の面で南軍が圧倒的に不利な中(南北戦争中、ずっとそうだが)、不退転の決意で決して引かず、その様子が「石の壁」のごときであるとして、「ストーンウォール」というあだ名をたてまつられた。
しかし、その後の彼とその部隊の活躍は、どちらかというと機動性を生かした「歩く騎兵」と呼ばれる行動に終始した。
1862年春の半島作戦前はシェナンドア渓谷で、神出鬼没の活躍を見せて北軍を混乱させた。
七日間戦争ではさすがに部隊に疲労がたまったが、その後素早く北に軍を展開させ、第二次マナッサスの戦いも勝利に導いた(2008年10月11日の記事参照)。
1862年秋、リーはメリーランド作戦を決行する(2008年12月17日の記事参照)。リーは部隊を分散させて北軍の各軍事拠点を攻撃させたが、ジャクソンはもっとも遠いハーパーズ・フェリーを迅速に落とした。
ハーパーズ・フェリーは、大規模な兵器工廠のあったところで、戦前の1859年に奴隷解放主義者ジョン・ブラウンが蜂起している(ブラウンの主張は暴力を肯定しており、リンカーンは彼を「見当違いの狂信者」としている)。
ブラウンの蜂起を鎮圧したのが、当時合衆国陸軍将校だったリーであり、逮捕されたブラウンの死刑執行の警備にあたったのがジャクソンだった。
ジャクソンの強さは、目標を見定める勘の良さと、実行するための命令にぶれが無いことだった。
各部隊を率いる将官個人の判断に任せる傾向の強いリーにとって、ジャクソンはまさに理想の部下だった。リーはジャクソンとは個人的に親しい友人であるとともに、その能力を非常に愛していた。
ジャクソンは信心深く、勝負はすべて神の思し召しとして、余計な運試しや仮説の構築には見向きもしなかった。マクレランとは好対照かも知れない。その信仰心は、日曜日の戦闘を嫌い、祈りを欠かさず、その間若い兵士たちは沈黙を保つのを常とした。
神と家族を愛したジャクソンだが、極端に寡黙で、コミュニケーションに難があったらしい。それは部下への指示に影響し、副将を務めたA.P.ヒルとは、作戦面で衝突することが多かった。
ある意味、神秘的な雰囲気の持ち主である一方、どこでも寝る、乗馬が苦手、身なりに気を使わないなど、傍目には一兵卒にしか見えない一面もあった。
1862年末までにはストーンウォール・ジャクソンの名将としての評判はひろまっており、ハーパーズ・フェリーの住人たちは、名将ジャクソンのみすぼらしさに驚いた。それを伝え聞いたジャクソンの年若い親友が、美しい軍服をプレゼントしている。
ジャクソンは戦争半ば、38歳で命を落としたため、その名声は伝説的なものとなった。その死については後の記事に譲るが、とにかくストーンウォール・ジャクソンの名は南部の人々の心に尊敬と、故郷への誇りを伴って生きつづけることになった。
セ記事を書く
セコメントをする