リーの率いる、南軍による北部侵攻作戦,メリーランド作戦が、アンティータムの戦いで挫折した後、逆に北軍が南部連合への侵攻作戦を実行に移し、バーンサイド率いるポトマック軍が南下した。
最初の大規模な戦闘は、ヴァージニア州フレデリックスバーグで行われたのだが、その地理的理由は、地図を見れば一目瞭然だ。
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北部連邦首都ワシントンと、南部連合首都リッチモンドを結ぶ最短経路の、ほぼ中間にフレデリックスバーグは位置するのである。さらに、南北に流れるラパハノック川の西岸に町があり、背後にはメアリー高地という丘が控えていた。
1862年11月17日、12万の北軍が川の対岸に到着した直後に、バーンサイドが何らかの無理な手を使ってでも、軍を渡河させて、フレデリックスバーグに突入してしまえば、この町の名が歴史に残ることもなかったかもしれない。
この時、フレデリックスバーグの南軍は、せいぜい500ほどしか居なかったのだから、占領は造作もなかっただろう。
しかし、バーンサイドは渡河のため橋の構築に手間取り、その完成を悠長に待った。橋の遅れ自体は後方支援の責任だったが、現場責任者のバーンサイドはグズグズするべきではなかった。
北軍が川を渡りあぐねている間に、リー以下、ロングストリート,ストーンウォール・ジャクソン,スチュアートなど、歴戦の名将たちが70000の兵を率いてフレデリクスバーグに集結してしまった(それでも、数の上で南軍は北軍の6割にも満たないのだが)。
12月13日の明け方、バーンサイドは苦心惨澹の末、いよいよ渡河と総攻撃を命じた。
戦場は大雑把に言って南北に分かれていた。
フレデリックスバーグの市街地から南に5キロほど下流の西岸には、スローンウォール・ジャクソンと、ジェブ・スチュアートの騎兵が配された。数の上では北軍が圧倒していたが、北軍フランクリンの進軍は勢いを欠いていた。たちまち、スチュアートにやられてしまい、退却を余儀なくされた。
特に、スチュアートの部下で、わずか24歳の若い少佐ジョン・ペラムの砲撃は目覚ましい成果を上げ、リーの印象にも残った。このペラムというのは、
3月9日の、スチュアートの記事に登場した、ペラムである。
一方、フレデリックスバーグ市街背後のメアリー高地では、まさにどうしようもない戦闘が展開されていた。渡河した北軍はせっせとメアリー高地に向かって進撃し、ばたばたと丘からの砲撃に倒された。
正規の軍隊による戦闘などと呼べる代物ではなかった。自殺行為だの、虐殺だの屠殺だのと記述されるほど、北軍の進軍は馬鹿げていた。そのことにバーンサイドが気付いて退却するにも、驚異的な時間がかかった。
指令部のリーは、名言を吐いた。
「戦争がかようにむごたらしいのは、いいことだ。そうでないと、我々は戦争が好きになり過ぎるかもしれない。」
これは、この状況で、しかも高潔な人格で知られたリーが言ったからこそ、意味がある。リーは余りにも愚かなこの状況を、当事者でありながら正確に把握していた。
日暮れになって、やっとバーンサイドは戦闘停止と撤退を決めた。それに際して、バーンサイドはリーに死傷者の回収を願い出た。「リーは寛大に受け入れた」と表現されるのだが、リーにしてみればこの状況で寛大も何もあったものではないだろう。
死傷者、北軍は12000(死傷率1割!)、南軍は5000だった。
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