2010-01-24
この南北戦争関係の記事の中ではあまり目立つように記述されていないが(つまり、私の興味をひくタイプではないという意味で)、リーが信頼する軍団指揮官の第一には死んだストーンウォール・ジャクソンと、もうひとりジェイムズ・ロングストリートが居た。
いくらか神秘的な閃きと突進力を持つジャクソンに対し、三歳年上のロングストリートはやや慎重で手堅い軍事行動が多かった。その意味で、リーには双方の能力がバランスよく発揮されることが理想的だった。
チャンセラーズヴィルでの完全なる南軍の勝利は、リーの意図と、ジャクソンの絶妙な奇襲攻撃、そのあとのダメ押し攻撃の勝利で、ロングストリートの出る幕はなかった。と、言うより彼はその場に居なかった。
1862年暮れのフレデリックスバーグの戦いでの勝利後、ロングストリートは自分の軍団を率いて西部戦線のサフォーク包囲戦に加わっていたためである。この行動は、ロングストリートの提案を、リーが承認したものだったが、大した成果は上げれなかった。ロングストリートはチャンセラーズヴィル後に、リーの元へ復帰した。
さて、ロングストリートが戻ってきたところで、リーは軍の再編をしなければならなかった。手持ちの軍勢は70000。それまで、リーが指揮した中では最大規模だった。
ロングストリートはそのまま第一軍の司令官に、ジャクソンを失った第二軍は二つに分かれ、一方はジャクソン配下のリチャード・イーウェルが、もう一方は第三軍として、やはりジャクソン配下だったA.P.ヒルを中将に格上した上で、担当することになった。
この第三軍の司令官については、ジェブ・スチュアートが就任するのではないかという噂が一部で流れた。
チャンセラーズヴィルでジャクソンが倒れ、さらにA.P.ヒルが負傷したとき、第二軍の指揮権は次席のローズ准将が受け持つのが筋だったが、あの緊迫した局面において、それが最善の策だとは、複数の人間が考えなかった。ローズ自身もしかりで、急遽第二軍の指揮を、スチュアートに依頼したのだ。
スチュアート少将は独立した騎兵師団の指揮官。立場的に多少の融通がきくのは事実だった。指揮権のスチュアートへの移譲は、まだ生きていたジャクソンの意志とも、A.P.ヒルの意志とも、言われている。二人ともスチュアートの親友であり、彼を良く知っているだけにあり得る話だった。ともあれ、この指揮権移譲を、リーは事後承認した。
チャンセラーズヴルの戦いは、派手な奇襲とともに、徹底した南軍のダメ押し攻撃が功を奏した戦いだったが、このダメ押しを、華々しく指揮したのが、スチュアートだった。
スチュアートとしてはこの勢いを駆って、自らの中将への昇進と、第二軍指揮官への就任を期待していたらしい。この積極的で明るい性格の男は、それを信じていた節がある。第一、彼はリーに非常に愛されており、この昇進は非現実的ではなかった。
リーは、スチュアートをもう一人の息子のように愛しており、それゆえにこの若い(30歳)少将の危うさを感じていたのかもしれない。軍の再編成では、手堅くスチュアートよりも先輩の二人が中将として第二軍,第三軍を担当することになった。
拗ねたスチュアートが辞表でも出すのではと言う噂もあったが、彼もそこまで馬鹿ではなかった。しかも、彼は軍団指揮官になりたいと思う一方で、自分が育て、中世の騎士よろしく華々しく、有能な騎兵隊の指揮官であることにも執着していた。このあたりが、スチュアートの面白いところだ。
リーは、スチュアートの手元に集め得るだけの騎兵を集中させた。その結果、スチュアートは10000という大騎兵団の指揮官となった。この騎兵の中には、リーの息子ルーニーや、甥フィッツヒューの部隊も含まれており、両者ともスチュアートの親友だった。
リーのこの配慮に、スチュアートは応えなければならないと、気負っていた。この気負いが、吉と出るか凶と出るか。
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