ノースアンナ
2011-09-02


1864年春の時点から考えても、南北戦争は北部連邦優位で展開していた。人口は最初から北部が圧倒的だったので兵力の分母が違うし、ヨーロッパからの移民がいきなり兵士にされるような強引な手段が取られた。
 さらに産業面でも北部は南部を圧倒していたし、海上封鎖のため貿易行為を妨げられレしまうと、南部は干上がるしかない。
 しかし、なんと言っても政治という高次元で北部連邦は南部を圧倒していた。
 南部は何も北部に打ち勝たずとも、その独立性を認められれば良いわけで、ヨーロッパの大国による仲裁でそれを達成しようと目論んでいたはずだった。しかし、南部にはそれを行うほどの経綸の才に恵まれた政治家は居なかった。そして、相手が圧倒的に政治能力に長けたリンカーンだったことは、南部の不利を決定的にしていた。
 リンカーンは常にタイミングを見計らい、良い時期に良い政治声明を上手く繰り出すことにより、事態を優位に進めていた。特に、アンティータムの戦いの直後、奴隷解放宣言を行った事は、彼の政治的勝利を決定付けた。奴隷制度については、北部でも意見が分かれており、はっきりと明言することは ― 彼の個人的信条はともかくとして ― 避けるべきだった。
 しかし、ヨーロッパ諸国にとって、この奴隷解放宣言は北部支持の決定打だった。リンカーンはその大きな果実を取った。
 リンカーンは決して、誠実で正直なだけの人物ではなかった。したたかな彼には政略があり、それを実行するためには妥協を許さず、戦時ならではの強権を振るった。彼は頑固で、辛抱強く、徹底的で、目的のためには細心で、抜け目が無かった。だからこそ、南部に対して懐柔作戦はとらず、あくまでも戦争での勝利で ― しかも早く事を進めたかった。
 時あたかも、大統領選の年である。リンカーンは、しつこく北軍の攻撃を退け続けるリーを、一刻も早く撃退してしまいたかった。

 中将に任じられた北軍司令官グラントは、リンカーンの意図を当然理解しつつ、一方で迷惑がっていただろう。リンカーンは比類無き政治家だが、戦闘に関しては素人だ。
 ともあれ、グラントはリー率いる南軍を撃滅する方法を考えた。まともに攻撃したところで、地勢と塹壕を熟知したリーの守備に、決定的な敗北を味あわせるのは難しい。それはウィルダネスと、スポットシルヴァニアで証明済みだ。
 騎兵の機動性を用いて、目標をリッチモンドと見せかけておびき出そうとしても、それに対応したのもまた南部の騎兵だけで、スチュアートを仕留めはしたものの、リーはあいかわらず動かない。

 グラントは5月20日、もう一度リーを誘い出す作戦に出た。北軍にとって忌まわしき樹海を出て、南東方向 ― つまりリッチモンド方向へと動かし、南軍を開けた場所に誘い出した上で、右側から会戦を挑もうとしたのだ。そうなれば、リーお得意の少数奇襲も、強固な陣地からの猛烈な応射もできない。
 しかし、スチュアートを失ったとは言え、南軍の騎兵はまだその特性を活かし続けていた。スチュアートの後任となったウェイド・ハンプトンと、リーの甥フィッツヒュー・リーの騎兵は、北軍の動きをいち早く察知し、リーは北軍に先んじて南軍を移動させたのである。
 5月22日、リーはノース・アンナ側南岸に強固な防衛線を築いた。しかも、南軍にしては珍しく、9000の援軍も加わっていた。バミューダ・ハンドレッドでバトラーの北軍が動けなくなっていたため、P.G.T.ボーレガードはピケットの師団を送ることが出来たし、ニューマーケットでの勝利により、シェナンドー渓谷からも、ブレッキンリッジの部隊が到着していたからである。


続きを読む

[歴史]

コメント(全2件)
コメントをする


記事を書く
powered by ASAHIネット